コロニアグエル教会地下聖堂の実測は1983年から1985年までの二年間で実測と作図をした。
この教会は私にとっては心を癒してくれる空間でもある。
つまり地下聖堂だけができいるわけで教会としては住民のためのミサが挙げられることと結婚式場としてよく利用される。家庭的なサイズの地下聖堂で内部にはいると適度な明るさに静けさでここで過ごす時間を忘れさせてくれるような落ち着きと音響効果を醸し出している。
ミサを聞いていても聞きやすく仲間たちとお話ししても話しがしやすい場所でもある。
私にとっては理想的な空間である。

建築とは

コロニア・グエル教会地下聖堂を見学しながら建築とは何だろうと考える。ガウディとって建築とは、作品であり芸術的演出によって構成されている。それは彼の手記からもその芸術性が裏付けされている。ものが人為的に創作されるというのはどの世界でも共通する。しかもその創作には地域性を醸し出し建築が単なる経済的または消耗品的建築と言う概念では考えていないということをガウディは、作品を通して教えてくれている。

ガウディのミス

いまやガウディの名前を知らない人はいないのではと思うほどに世界的に知れ渡った。
その彼の計画した作品はどれも優れた作品だと思っている。
しかしガウディも人の子、立派な建築家に成長する過程には勿論、まずい作品もある。
初期の作品でもこれはちょっとまずいと思えるようなデザインがあったりする。
そんなまずい部分を見るのも人間ガウディの成長を知るには大事な研究作業であるとおもっている。

はかると何がわかるのか

はかる行為には、計る、図る、測る、謀る、諮り、量る、と漢字だけでもわかるように読み方が同じでも意味がことなる。外国の単語でも単語に幾つもの意味合いがあるのと同じである。
それらを見分けるには文体が解らないとその単語の内容がわからない。

翻訳をする時も同じように全体の文章の流れを理解しなければその単語の意味が見えてこないのである。
言語上、シンプルな「はかる」行為を漢字で分類した表現ではなく第三者の理解緑に任せて文体を構成するということが可能となるように平仮名または片仮名による単語だけにすると、その区切り方で意味がさらに変わってくる事さえある。
国語の苦手であった私が言語の話しをするのは可笑しいかもしれない。
しかしこれが、実は私のジレンマとして幼少から抱えていた問題であることを最近になって気がつきはじめた。
つまり絵画を見る時に誰の目から見ても同じ風景であると信じている自分がいたが、実は観る人の理解力によっても意味が異なると言う事が如何に大切であるということも理解できるようになってきた。これを芸術の世界であると誰かが言っていた事を想い出した。
これもガウディの建築を諮り、まちをはかり、モニュメントをはかり、人間もはかったりすることで機会がある度にはかってきた。
それによって理解力と応用力が増してきた気がしている。思考力と応用性の合体、合理性、科学性、歴史性、そしてものにとって最も大切なアイデンティティーを考慮することでさらに深みのある作品をも考え理解できるようになってきたのではないかと思えるようになって来た。

コロニアグエル教会地下聖堂の修復に問題


コロニアグエル地下聖堂のポーチ
手前の段差は最近の修正でグランドの仕上げもオリジナルではない。右手にある傾斜は教会へのアクセスになっていたがグランドと同じように最近になってアクセスをキャンセルさせてその階段の入口には石を添えて登れないようにしている。
最悪の修復である。
維持管理が問題でポーチの防水処理をしただけで修復を終えている。
すでに社会的、建築的、歴史的問題として取り上げていたがその後の処理をどうするのかわかっていない。おまけに柵を巡らせてアクセスができないようにしている。教会らしくなくなってしまった。
以前なら気楽に散歩に立ち寄ってはポーチの半地下で休憩できたのに今はそれすらできなくなってしまった.柵を通り抜けるに入場料が必要となっている。

レウスのモデルニズムとセラミック

カタルニア地方のレウスにある精神病院ペレ・マタ(PERE MATA(1897−1912)はドメネック・モンタネールによって計画されたカタルニアでも代表的なモデルニズムの建築である。
その建築作品に利用されているセラミックはレウスのHipolt Monseny窯業(イポリ・モンセニー)で作られていた。
この工場はこの数年前に閉業されているが現在でもその姿を残している。このイポリ製の陶器はバルセロナのモデルニズモで広く利用されていたことは工場の台帳でも裏図けられている。

現在この持ち主で子孫であるイポリ氏は、モデルニズムの生き字引のように当時の様子を聞かせてくれる。
この窯は、当時からの円筒状窯であり、二重構造になっている。薪は外部から窯に入れて焚き二重壁の空気層に入り、火は、ボールトの展天井腋から内部に入り窯の中央床の穴に火が抜けて集合煙突に通じている。これによって窯内部の温度調整ができるようになっている。かれらはこれを「逆炎釜」というような言い方をしていた。初めて見る窯である。

グエル別邸の窓


グエル別邸の双子窓、私は1980年にフィンカ・グエル(グエル別邸)に本部をおいていた王立ガウディ研究室へは毎日に様に通い続けていた。その中でバセゴダ教授は、オリベッティーのタイプライターに向って両手の人差し指だけて毎日のようにテキストを作成していた様子を今でも想い出す。1995年くらいから彼のタイプライターもパソコンに替わる。
私も1992年にカタルニア工科大学バルセロナ建築学部でバセゴダ教授をディレクターとして博士論文を発表する事ができた。その頃の論文は全てワープロで作成していた時代で毎日胃がチクチクするほど論文作成では苦労させられた。
あれからすでに22年は過ぎた。時の流れは実に早い。
バセゴダ教授も2012年に亡くなり王立ガウディ研究室は、バルセロナ建築学部の図書室脇に移動し単なるガウディ研究室にかわった。現在の管理者サンマルティ氏によるガウディ研究の論文は見た事も聞いた事もない。私の勉強不足かもしれない。