はかると何がわかるのか

はかる行為には、計る、図る、測る、謀る、諮り、量る、と漢字だけでもわかるように読み方が同じでも意味がことなる。外国の単語でも単語に幾つもの意味合いがあるのと同じである。
それらを見分けるには文体が解らないとその単語の内容がわからない。

翻訳をする時も同じように全体の文章の流れを理解しなければその単語の意味が見えてこないのである。
言語上、シンプルな「はかる」行為を漢字で分類した表現ではなく第三者の理解緑に任せて文体を構成するということが可能となるように平仮名または片仮名による単語だけにすると、その区切り方で意味がさらに変わってくる事さえある。
国語の苦手であった私が言語の話しをするのは可笑しいかもしれない。
しかしこれが、実は私のジレンマとして幼少から抱えていた問題であることを最近になって気がつきはじめた。
つまり絵画を見る時に誰の目から見ても同じ風景であると信じている自分がいたが、実は観る人の理解力によっても意味が異なると言う事が如何に大切であるということも理解できるようになってきた。これを芸術の世界であると誰かが言っていた事を想い出した。
これもガウディの建築を諮り、まちをはかり、モニュメントをはかり、人間もはかったりすることで機会がある度にはかってきた。
それによって理解力と応用力が増してきた気がしている。思考力と応用性の合体、合理性、科学性、歴史性、そしてものにとって最も大切なアイデンティティーを考慮することでさらに深みのある作品をも考え理解できるようになってきたのではないかと思えるようになって来た。